プラトンと性善説
久しぶりに『メノン』を、希語と和訳を対照させながら読んでみました。希語はドイツのマイナーのもの、和訳は最近重宝している光文社古典新訳文庫からのものです。
渡辺邦夫訳はとても読みやすいですね。
『メノン』は「徳というものは人に教えることができるのか」というテーマで、主にソクラテスとメノンの対話が進んでいくというものですが、いろいろと突っ込みたくなる部分もあります。とりわけ印象的なのは、有徳の士とされている人々の子孫が、有徳の士となっていないという事実を指摘するくだりでしょうか。そこで前提になっているのは、自身の子も有徳の士にしようとするのが、有徳の士たるものではないか、ということです。そうできないのは、徳が教えられるものではないからではないか、と話をもっていくわけですね。
つまり、これは一種の性善説を前提にしているわけです。有徳であるならば、有徳は善いことなのだから、それを他者に伝えようとするのも善いことで、自然にそうするだろう、そうなっていないのは、徳の性質として「教えられるものではない」からだ、という理屈です。で、もしここで、そうした性善説に立たなかったらどうなるでしょうか。有徳者が徳を教えようとしなくても、不思議ではない、ということになったら?徳を自発的に教えようとしない可能性が開かれ、徳が性質として教えられないものだという議論の根拠は希薄になってしまいます。
それだけではありません。ソクラテスは「徳がどのように獲得されるのか」について、ここでは深く考察しません。神の恩寵みたいなところに帰着させてしまっています。しかしながら性善説の部分を否定すると、では現に有徳の士はどのように徳を獲得したのか/するのか、という問題が改めて前景にせり出して来ざるをえません。私たちからすれば、そのように考えるほうが、より深く思考をめぐらすことができそうに思えるのですが、どうでしょうか?