普遍文法は退場(笑)
モーテン・クリスチャンセン、ニック・チェイター著『言語はこうして生まれる——「即興する脳」とジェスチャーゲーム』(新潮社、塩原通緒訳、2022)をいっきに読了しました。これも面白いですね。言語が発展したおおもとは、伝え合うための即興的手段、ある種のジェスチャーゲームにあったのではないか、という発想から、言語の成立やその諸特徴までをも、そうした発想のもとに網羅的に整理していこうというものです。
もちろん、現人類の複雑な言語体系ができあがるには、それなりの長大な時間と、手段の蓄積・集積と、なんらかの核となるものが必要になります(物理学や情報論などで「動的平衡」がどうやって維持されるかという問題がありますが、それと同じように、なんらかの核がなければ、ひたすらカオスが継続するだけになってしまいそうですよね)。著者たちはそこで、限られた記憶を再利用しやすいような、手段の「チャンク化」が、そうした核をなしていると見なします。
それによって、ある種の比較的単純な着想が、とてつもない広がりを見せてきます。おお〜という感じ。このあたりからが本当の読みどころでしょう。ヒトの言語が生物学的に規定されているとか、再帰性にこそヒトの言語の特徴があるといったチョムスキー路線の話は、ことごとく退けることができる、とされます。
そもそもチョムスキー的な生成文法の発想は、遺伝子の発見や構造主義などの同時代的な流れの中で成立していた側面も強いと思います。時代は完全に別の流れに取って代わられました。では、この即興的言語論を下支えしている流れは何でしょうか。思うにそれは、論理的推論すらも確率論的に処理されうるのでは、という最近のchatGPTなどの発想ではないかなと思われます。
著者たちは、GPT-3をもとに、AIの処理は言語行為の主体の「理解」をともなうものではなく、ジェスチャーを起源と捉える自分たちの説にはまったくそぐわない、と強く批判しています。でも、GPTそのものというよりも、「確率論的な処理」がおおもとにあるというような発想が、著者たちの説の下敷きになっている感じは拭いきれません。確率論的な処理は、総じて昨今の学問的な大きな流れの一つを作っているような印象を受けます。