ホモ・ファブランス
70年代から80年代前半ごろまで、構造主義的な物語論とかナラティブ論とかが文学研究(おもにフランス文学系)の一端を担っていた時代がありました。グレマスとかブレモンとか、懐かしいです。今となっては古めかしいのですけれどね。その後、それらは急速に下火になったのでした。でも、「物語ること」が人間の言語活動・認識作用の大きな部分を占めているという「印象・直感」は、長く存続してきたように思います。で、近年のフェイクニュースなどの社会現象なども相まって、その「物語り」の問題系は、かたちをかえて再浮上してきた感があります。
そのことを表しているかのようなのが、ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』(月谷真紀訳、東洋経済新報社、2022)でした。人がフェイクを信じたり、ある種のドグマやイデオロギーに嵌まってしまったりするのも、その根底には必ずや「物語」があるのではないか、と著者は問うています。しかも、人が物語を取り込むのではなく、物語に人が取り込まれるのではないか、と。
なぜそうなるのかというと、物語ることは人間の根底的な認知構造に根ざしているからではないかというのが、ここでの主張です。シミなどの点が3つあると顔に見えるのと同様に、なんらかの認識や理解には、必ずやストーリーが構成されて関与する、というわけです。そこで挙げられているのが、1944年のハイダー&ジンメルの簡単な実験用アニメーション動画です。YouTubeにあるのですが、単純な丸や三角形たちの動きが、なにやら人間関係のストーリーを彷彿とさせてしまうという実例ですね。ジラールの欲望論(これも古めかしい)なんかも思い起こされます。
物語論は本当のところ、その基本構造(クリステヴァなどの、生成文法モデルを援用しようとするものもありましたっけ)を明かすだけでは全然十分ではなかったのですね。なぜ、どのようにその基本構造が成立するのか、にまで踏み込んでいかないと。著者はそのことを重々認識しつつ、研究はこれからだとして、同書では当面のストーリーテリングとの付き合い方を提言するにとどめています。